オペラ「椿姫」について
オペラ「椿姫」
■こちらでは、オペラ「椿姫」について解説いたします
下記動画にても大まかではありますが、同様の内容をまとめてありますのでよろしかったらご参考にして見て下さい ▼
椿姫序曲 動画の出典元:https://www.youtube.com/watch?v=8cwjO1g-F5E&t=9s
オペラ名:「La Traviata(ラ・トラヴィアータ)」(道を踏み外した女)
※日本では原作小説と同じ「椿姫」のタイトルで公演される事が多い
作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ
椿姫について
「椿姫」とは、19世紀、フランスはパリの社交界を舞台に繰り広げられた激しく短い男女の恋の物語である。
アレクサンドル・デュマ・フィスの原作小説を元に今日まで、オペラ、戯曲、バレエ、映画など様々なかたちで世に送り出されている。
あらすじ
19世紀、欧米列強が富を求め植民地経営に熱を上げていた時代、結核という病におかされつつも夜の世界に生きる、椿の花を好んだ高級娼婦ビオレッタに、まだ世間知らずで純朴な青年アルフレードが熱を上げた。
富や権力を誇る事に夢中の貴族たちの中にあって、純粋な恋心から自分に夢中になるアルフレードは、ビオレッタにとって嬉しい存在であり、また戸惑わされる存在でもあった。
なぜなら、自分は娼婦という社会から蔑視された存在であり、また結核という不治の病を患っていることから、彼と結ばれて幸せな未来など来ないとビオレッタは思っていたからである。
案の定、二人は一時、共にパリを離れて郊外の田舎で幸せに過ごすが、アルフレードの父が交際に反対し別れる事となり、その後、ビオレッタは病で息を引き取った。
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高級娼婦とは
ビオレッタの職業である高級娼婦というのは、社交界における貴族男性たちの遊び相手で、美貌と教養を兼ね備えた女性であれば庶民でもなる事ができた。
ただ、プライドの高い貴族相手の商売のため、労働者相手の娼館などで一度でも働いた娼婦は、なれなかったといわれる。
高級娼婦は、女性が就ける職業が限られていた時代、貧しい家庭に生まれた女性が成り上がる事ができた数少ない職であったため、現状の貧しい生活に満足できない、美貌と才知に自信がある女性たちが高級娼婦への道を歩むケースが多かった。
成功した高級娼婦としては、椿姫のモデルと言われるマリー・デュプレシーや、ルイ15世の公妾となったデュ・バリー夫人などがいる。
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椿姫ことビオレッタが椿を好んだ理由
椿の花は香りがあまりなく、結核を患っていたビオレッタでも苦にならず身につけられたからだといわれる。
ビオレッタは、ひと月のうち25日間を白い椿、5日間を赤い椿を身につけていた。
赤い椿を身につけるときは"生理中"のときであり、花の色で男性客に"今日は営業できません"というサインを送っていたのだといわれる。
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椿姫を作った人たち
原作者、デュマ・フィス
今日までにオペラ、戯曲、バレエ、映画など様々なかたちで世に送り出されてきた「椿姫」だが、その原作は、アレクサンドル・デュマ・フィスの小説「椿姫」である。
デュマ・フィスは「三銃士」などを書いたことで有名なフランスの同名小説家、アレクサンドル・デュマの私生児として生まれた二世小説家である。
デュマ・フィスは、私生児として生まれたことで自身も世間から偏見の目で見られていた経験があり、娼婦のような世間から蔑まれている人間を描くことが上手い作家である。
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椿姫のモデル、マリー・デュプレシー
また椿姫に関しては、実在した高級娼婦のマリー・デュプレシーがモデルとなっている。(マリー・デュプレシー自身もまたビオレッタと同じく肺結核を患い、23歳で夭逝している。)
マリー・デュプレシーは、当時のパリで有名な高級娼婦で、椿姫の原作者、デュマ・フィスや、人気ピアニストで作曲家のフランツ・リストなど著名人と関係があったことでも知られている。
そして椿姫の物語は、アルフレードとビオレッタが出会い田舎で一時暮らすあたりまでは、彼女とデュマ・フィスとの間に起った実話である、とデュマ・フィス本人が語っている。
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作曲者、ジュゼッペ・ヴェルディ
オペラ「椿姫」は、椿姫の戯曲を観て感銘を受けたオペラ作曲界の巨匠、ジュゼッペ・ヴェルディによって作曲され「La Traviata(ラ・トラヴィアータ)」(道を踏み外した女)と改題され1853年に初演された。
小説「椿姫」では、ビオレッタはひとりで息を引き取り、死に際に逢えなかったアルフレードが後悔しながら回想するという形で話が進められている。
しかしオペラでは、小説と異なり息を引き取る間際のビオレッタとアルフレードが三幕で再会するシーンがあり、決してハッピーエンドではないが一抹の救いを感じさせる作りとなっている。
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椿姫 各幕解説
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アントニオ・ヴィヴァルディ
ヴィヴァルディについて
■こちらでは、バロック時代の作曲家でバイオリン協奏曲「四季」の作曲者として知られるアントニオ・ヴィヴァルディについて紹介いたします。
生い立ち
アントニオ・ヴィヴァルディは、1678年3月4日、イタリアのヴェネツィアにて、理髪師の父ジョバンニ・バッティスタと仕立て屋の娘だった母カミッラ・カリッキヨとの間に9人兄弟の長男として生まれた。
父ジョバンニ・バッティスタは理髪師だったが、サン・マルコ大聖堂のバイオリニストに選ばれるほどヴァイオリンが得意だった。その父の影響でヴィヴァルディも幼少よりバイオリンを学んでいる。そして、ヴィヴァルディは父ジョバンニの音楽仲間から作曲法なども学んでいった。
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教会付属学校に入学
ヴィヴァルディは、10歳のときにサン・マルコ大聖堂近くのサン・ジュミニアーノ教会付属学校に入学する。ヴィヴァルディが聖職者への道を歩んだのは、音楽の才能があったヴィヴァルディが社会に出て貴族など様々な階級の人たちと引け目なく交流するには、聖職者になるのが一番だったからだといわれる。
ヴィヴァルディは25歳で司祭となり、赤毛だったこともあり「赤毛の司祭」(イル・プレーテ・ロッソ)と呼ばれていた。
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音楽院の教師としての活動
25歳で司祭となったヴィヴァルディだが、司祭となった同年1703年9月からはピエタ慈善院付属音楽院で、バイオリン教師として指導をはじめる。そして、この頃からヴィヴァルディは作曲家としても作品を世に発表しはじめる。
1705年に「トリオソナタ集」を作品1、1709年に「バイオリンソナタ集」を作品2、1711年には「調和の霊感」を作品3として発表している。
そして1713年には、オペラ処女作「怒りのオルランド」をヴェネツィアのサン・タンジェロ劇場で初演している。
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オペラ作曲家として名声を高める
1713年、オペラ処女作「怒りのオルランド」初演以降ヴィヴァルディは、ヴェネツィアのサン・タンジェロ劇場を中心にオペラ作品の発表を精力的に行って人気を博し、名声を高めた。
ヴィヴァルディと言えば今日、「四季」をはじめとする協奏曲で有名だが、当時はヴェネツィア派のオペラ作曲家として名を高めている。
1716年、所属するピエタ慈善院付属音楽院では協奏曲長となり、1718年からはヴェネツィアを離れ、マントヴァ伯の元で宮廷学長としてオペラなどを披露した。
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イタリア各地を回ってオペラ興行
1720年代からのヴィヴァルディは、ピエタ慈善院付属音楽院に所属しつつ、イタリア各地でオペラ興行を行っている。また1725年には、ヴィヴァルディの代表曲として有名な「四季」を含むバイオリン協奏曲集「和声と創意への試み」を作品8として発表している。
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ウィーンにてこの世を去る
1740年、ヴィヴァルディは念願だったウィーンでのオペラ興行を企画する。しかし、神聖ローマ帝国皇帝カール6世の崩御で一年間の喪に服すことになり、その後もオーストリア継承戦争の影響もあり、ウィーンでのオペラ興行は中止となってしまった。
そして1741年、ウィーンにて63歳でヴィヴァルディはこの世を去る。オペラの方はヴィヴァルディの死の翌年1742年、ベートーベンの第九の初演を行ったことでも知られるウィーンのケルントナートーア劇場で公演が行われた。
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年表
1678年、イタリアのヴェネツィアに生まれる。
1688年(10歳)、サン・ジュミニアーノ教会付属学校に入学。
1703年(25歳)、司祭となる。同年、ピエタ音楽院でバイオリン教師として指導開始。
1705年(27歳)、「トリオソナタ集」を作品1として発表。作品を世に発表し始める。
1713年(35歳)、オペラ処女作をヴェネツィアのサン・タンジェロ劇場にて上演。
1718年(40歳)、マントヴァ公の宮廷楽長として招かれる。
1725年(47歳)、バイオリン協奏曲集「四季」を発表。
1741年(63歳)、ウィーンでのオペラ興行叶わず、ウィーンにて死去。
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ヴィヴァルディ四季
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