アントニオ・ヴィヴァルディ
ヴィヴァルディについて
■こちらでは、バロック時代の作曲家でバイオリン協奏曲「四季」の作曲者として知られるアントニオ・ヴィヴァルディについて紹介いたします。
生い立ち
アントニオ・ヴィヴァルディは、1678年3月4日、イタリアのヴェネツィアにて、理髪師の父ジョバンニ・バッティスタと仕立て屋の娘だった母カミッラ・カリッキヨとの間に9人兄弟の長男として生まれた。
父ジョバンニ・バッティスタは理髪師だったが、サン・マルコ大聖堂のバイオリニストに選ばれるほどヴァイオリンが得意だった。その父の影響でヴィヴァルディも幼少よりバイオリンを学んでいる。そして、ヴィヴァルディは父ジョバンニの音楽仲間から作曲法なども学んでいった。
◆
教会付属学校に入学
ヴィヴァルディは、10歳のときにサン・マルコ大聖堂近くのサン・ジュミニアーノ教会付属学校に入学する。ヴィヴァルディが聖職者への道を歩んだのは、音楽の才能があったヴィヴァルディが社会に出て貴族など様々な階級の人たちと引け目なく交流するには、聖職者になるのが一番だったからだといわれる。
ヴィヴァルディは25歳で司祭となり、赤毛だったこともあり「赤毛の司祭」(イル・プレーテ・ロッソ)と呼ばれていた。
◆
音楽院の教師としての活動
25歳で司祭となったヴィヴァルディだが、司祭となった同年1703年9月からはピエタ慈善院付属音楽院で、バイオリン教師として指導をはじめる。そして、この頃からヴィヴァルディは作曲家としても作品を世に発表しはじめる。
1705年に「トリオソナタ集」を作品1、1709年に「バイオリンソナタ集」を作品2、1711年には「調和の霊感」を作品3として発表している。
そして1713年には、オペラ処女作「怒りのオルランド」をヴェネツィアのサン・タンジェロ劇場で初演している。
◆
オペラ作曲家として名声を高める
1713年、オペラ処女作「怒りのオルランド」初演以降ヴィヴァルディは、ヴェネツィアのサン・タンジェロ劇場を中心にオペラ作品の発表を精力的に行って人気を博し、名声を高めた。
ヴィヴァルディと言えば今日、「四季」をはじめとする協奏曲で有名だが、当時はヴェネツィア派のオペラ作曲家として名を高めている。
1716年、所属するピエタ慈善院付属音楽院では協奏曲長となり、1718年からはヴェネツィアを離れ、マントヴァ伯の元で宮廷学長としてオペラなどを披露した。
◆
イタリア各地を回ってオペラ興行
1720年代からのヴィヴァルディは、ピエタ慈善院付属音楽院に所属しつつ、イタリア各地でオペラ興行を行っている。また1725年には、ヴィヴァルディの代表曲として有名な「四季」を含むバイオリン協奏曲集「和声と創意への試み」を作品8として発表している。
◆
ウィーンにてこの世を去る
1740年、ヴィヴァルディは念願だったウィーンでのオペラ興行を企画する。しかし、神聖ローマ帝国皇帝カール6世の崩御で一年間の喪に服すことになり、その後もオーストリア継承戦争の影響もあり、ウィーンでのオペラ興行は中止となってしまった。
そして1741年、ウィーンにて63歳でヴィヴァルディはこの世を去る。オペラの方はヴィヴァルディの死の翌年1742年、ベートーベンの第九の初演を行ったことでも知られるウィーンのケルントナートーア劇場で公演が行われた。
◆
年表
1678年、イタリアのヴェネツィアに生まれる。
1688年(10歳)、サン・ジュミニアーノ教会付属学校に入学。
1703年(25歳)、司祭となる。同年、ピエタ音楽院でバイオリン教師として指導開始。
1705年(27歳)、「トリオソナタ集」を作品1として発表。作品を世に発表し始める。
1713年(35歳)、オペラ処女作をヴェネツィアのサン・タンジェロ劇場にて上演。
1718年(40歳)、マントヴァ公の宮廷楽長として招かれる。
1725年(47歳)、バイオリン協奏曲集「四季」を発表。
1741年(63歳)、ウィーンでのオペラ興行叶わず、ウィーンにて死去。
◆
ヴィヴァルディ四季
meikyokuclassic.hatenablog.com
meikyokuclassic.hatenablog.com
meikyokuclassic.hatenablog.com
meikyokuclassic.hatenablog.com
meikyokuclassic.hatenablog.com